戦後、17年経った頃に狛江の慈恵第三病院で産まれ練馬のアパートで幼少期を過ごしました。木造2階建てで8家族共有のお風呂と洗面所がある、今では考えられない共同住宅で同じ年ごろの子供達を交代で各お母さん達が、交代で入浴の面倒を見てくれていました。その後、三鷹の長屋に移り風呂は銭湯に行くようになり、極々普通に紋々だらけのおじさん・おばさん・お兄ちゃん・お姉ちゃん達と普通に入浴しフルーツ牛乳を共に飲んでいました。
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その長屋は、露天商やバッタ屋の夫婦やヤクルトおばさん、大工・ペンキ屋等の職人ギルドの様相で、なかなかに個性的で面白い家族が多く住んでいました。我家も怪しい建築会社の社長付の運転手だったので大して変わりありませんが、この地域でも数少ない汲み取り式のトイレだったのが懐かしいです。ここで我が家にもカラーテレビという画期的な家電が投入され「ジャイアントロボ」の真っ赤に染められた血のりの手に感動した事は、今も忘れられません。洗濯機も掃除機も水洗トイレもここで初体験しました。多分世間一般よりも数年は遅れていたと思いますが、色々な新しい家電に触れられる良い時代でした。
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小学校4年生の時に都営住宅に当選するという我家にとって画期的な出来事が起きました、産まれた病院の隣にある風呂・水洗トイレ完備の都営住宅の住人に晴れて成ることが出来きました。エレベーター無しの5階という物件で喘息持ちであった自分には、超過酷な環境で体調が悪い時など死ぬかも知れないと3階あたりで何度か思いましたが、慣れというものは人間を育てるもので後日強靭な心肺機能を身につける事ができました。
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この都営住宅は、露天商のおじさんや朝から吞んだ暮れている夫婦や無国籍の子供達やどう見てもヤバそうなお姉ちゃん・お兄ちゃん等、何でもありの住民達で溢れ返り本当に楽しかったです。
調布の祭りで知り合いの露天商のおじさんと親しげに会話をしていたら他地域の悪ガキ達にあらぬ嫌疑をかけられ面倒な時もありましたが、調布駅や国領駅の屋台でサービスで貰えるたこ焼きや焼きそば等今でも懐かしく、鑑別所上がりの兄ちゃん・姉ちゃん達が今頃どうしているか少々心配な所です。
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やっぱり昭和は、自由で活気があって何でもありの楽しい時代だったような気がしています。因みにセクハラ・パワハラ・DV・喫煙・個人情報の漏洩など等、至って当たり前の普通でハラスメントという概念は、微塵もありませんでした。
を考慮すると令和の方が、全体的に見て人にやさしい良い時代なのかとも少し思います。